シニアがブログでモノローグ

このままでは年を取って死ぬだけ。ブログでもやってみよう。

納豆の話題で東海林さだおと比べてみる

朝日新聞の土曜日朝刊,別刷りのbeに東海林さだおの食べものについてのコラムが連載されるようになった。

その前にも週刊朝日に連載されていて面白く,感心していた。

漫画家が本業だろうが,文筆家としての才能の方が勝っているのではないか。

 

東海林さだおの文章のユーモアあふれる作風をまねてみたい。

先日の朝日新聞beに彼が納豆のことを記したコラムが掲載されたので,私もまねて短文を書いてみた。

なお,同じ話題でどれくらい文章が違うか,彼の納豆についての記事はタイトルを見ただけにしておいて中身はまだ読んでいない。

 

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納豆からことばを連想してみる。

かき混ぜる,ネバネバ,ナットーキナーゼ,パック入り,コスパがいい,・・・。

 

納豆が食卓に置かれているのを見ると,条件反射で持っている箸を回転させ始めることはないか。

と思うくらい「かき混ぜる」という動作はこの食べ物に欠かせない。

パック入りの場合,かき混ぜるのに力が入りすぎると思わず箸先で発泡スチロールの底を突き破ったり,中身の納豆をこぼしたりする。

 

かき混ぜるほどに「ネバネバ」感が増してとろみがついてくるが,いったいどれくらいかき混ぜればいいのか。

混ぜる回数が多いほどいいというわけでもなさそう。

栄養成分が変わるわけでもなく,結局のところは「ネバネバ」感がその人の食感に受け入れられる回数でいい。

 

混ぜた納豆から箸を抜くと糸を引くのはやっかいでもある。

食卓に並べられた器をどういう順番に食べたかがわかるぐらいに糸を引く。

これを防ぐためには,箸を同じ大豆食品の味噌汁につけるといいことをテレビ番組で知り,それを実践している。

 

しかし,何といっても納豆は高栄養で安く手に入るのが魅力。

高たんぱく食品として知られている。

食品成分表により国産牛のバラ肉と比較すると100グラム当たりのたんぱく質は納豆が16.5グラムで牛肉は12.5グラム。

逆に,納豆はカロリーが牛肉の半分程度で低カロリーなダイエット食品。

 

納豆が発酵するときに生成されるナットウキナーゼは血栓溶解酵素とされている。

どれくらい効果があるのかわからないが、気分的には血液がサラサラになりそう。

 

納豆3パックが100円以下で買える。

こんなに値段を気にせずに買えて栄養のある食品は少ない。

今朝も,納豆を100回以上かき混ぜてご飯の上にかけ,生卵とキムチを加えて食べた。

品が良くないのでここだけの話にして欲しいが,食べた後のご飯茶碗をきれいにするため,味噌汁を注いで飲む。

 

地味ながら,納豆は庶民の食生活を支えている。

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以上が納豆についての私の作文。

ここまでやって、東海林さだおの書いた納豆のコラムを読んでみた。

・・・・・。

東海林さだおの奥ゆきがあって面白い作風はまねできなかった。

 

 

 

 

ルッキズムから逃れられない

前回のブログで私がルッキストになっているのかも知れないと記したが,まわりの者からもときどき指摘される。

テレビに映る女性の政治家などを見ていて,私の評価がその人のルックスで変わるというのだ。

私は何も意識していないつもりだが,ルックスも含めて政治家としての好き嫌いの評価を下しているように見えるらしい。

 

私に限らず,いつの間にか人物を外見で評価してしまうことはあると思う。

外見至上主義(ルッキズム)というほど大げさなものではないが,私たちみんなにあると思う。

こういう人間の心理について理解するときに利用しやすいのは、進化心理学的な考え方だろう。

文字通り、生物としての進化の観点から心理状態を理解しようとするのが進化心理学

幾つかの私たちに生じる心理状態は進化にともなう生物学的適応の過程で形成されたものという。

特に私たちの生存と生殖について生物として適応することは重要であり、その際に生じる心理状態は時代を超えて引き継がれてきた。

 

例えば、外見から人を判断しようとする心理は原始の時代から生存するためには必要であった。

仲間であるかどうかを、まず、外見で判断しないと生存が脅かされかねなかった。

生殖についてみると、自らの遺伝子を後世に残すには、生殖による出産や育児にふさわしそうな女性の体型が好まれ、狩猟して食料を提供してくれそうな体格のいい男性が好まれたろう。

外見を無視できない気持ちは、今も私たちの心の中に巣くっているはず。

 

外見から人の内面を判断するのは良くないことは重々承知しているつもりだ。

ルッキズムが人種差別や性差別につながりやすいこともわかる。

 

しかし、いつの間にか見た目でその人がおよそどういう人か判断してしまいがちになる。

ルッキズムの心理が頭をもたげても、理性で抑え込まねばなるまい。

 

 

 

 

ルッキストになっているかも

前々回と前回に続いて,また大リーガー大谷翔平選手の話。

水原一平通訳の違法賭博について,先日,大谷選手が記者会見した。

 

テレビや新聞の報道で周知の通り,大谷選手の話によると,違法賭博による水原通訳の行動については一切,知らなかったという。

つまり,借金の返済に大谷選手といっしょに口座から胴元に送金したなど水原通訳が最初にした発言はまったくの嘘だと断言した。

 

大谷選手の記者会見の内容については今後の調査で事実関係が明らかになるだろうが,およそ,そういうことだったのかと世間は受け取っている。

しかし,一部のメディアは大谷選手が関与しないで口座から巨額のお金を送金できるのかという疑問を報じている。

 

水原通訳が借金返済のために嘘をついてまで他人の口座から勝手に送金していたとすれば,それはそれで私のような野次馬にとっても大谷選手の百分の一くらいショックだ。

二人はいつも行動を共にして,とっても仲良さそうだったのに。

 

これまで数年にわたって水原通訳の表情や彼が野球場で大谷選手をアシストする様子をテレビで見てきたが,過ちを犯すような人物には思えない。

あくまで彼が嘘をついていたという前提でだが,私はその人の外見やちょっとした振る舞いから内面の人となりを誤って判断していたということになる。

世の中に外見至上主義(ルッキズム)という言葉があるが,私もルッキストになっているのかも知れない。

それにしても,水原通訳は借金返済に困り果て,自分を見失ってしまったのか。

過ちを犯したとしても,悪人のようには思えない。

野球場で観戦する水原夫人の姿もテレビで見かけたが,一夜にして夫が嘘つき呼ばわりされる身となり,かわいそうに思う。

水原夫婦のケアを誰かしてあげているのだろうか。

心配。

 

 

法律は知らないではすませられない

前回のブログに続いて、大リーガーの大谷選手からみの話題をもう一つ。

大リーグ開幕戦が韓国で開催された日、大谷選手の通訳である水原氏がドジャースから解雇された。

理由は水原氏が違法賭博をして借金がかさみ、大谷選手に多額の借金を肩代わりしてもらっていたことだ。

 

水原氏は大谷選手に銀行口座から胴元に送金してもらったとスポーツ紙に告白したが、その後、大谷選手は借金返済にまったく関与していないと発言を翻した。

ことの真相がどうなっているのか、多くの人が知りたいところだが、大谷選手からの発言はまだない。

 

水原氏の言うことが本当であるとすれば、スポーツ賭博が違法なことや胴元が怪しい人物であることを知らなかったようだ。

ましてや、借金を肩代わりした大谷選手もその行為が違法なことを知らなかっただろう。

情に弱い人たちからすれば、住んでいるカリフォルニア州では違法なことを知らないで賭博したり、大変な世話になっている友人の借金の肩代わりをしたことに対しては情状酌量の余地が十分にあるのではないかと感じるだろう。

 

しかし、事はそう簡単には済ませられない。

法律の世界では、法律のことを知らないで起こした事件について、知らなかったではすませられないという原則があるからだ。

「法律の不知はこれを許さず」といったりするらしい。

日本の刑法にも条文としてきちんと記され、民法や税法など他の法律もおよそこれに従う。

 

考えてみれば、違法なことをしても「知らなかった、ごめん」で済めば警察はいらない。

法治国であれば、住人は法律のことを知っておいたり調べたりしておく責任がある。

通訳の水原氏も大谷選手も違法な行動をとってしまったことについては罰から免れないだろう。

 

これまでの報道から、何となく水原氏個人の責任にしてしまおうとする意図が感じられるが、やはり最初に水原氏がスポーツ紙に告白したように、大谷選手が胴元に送金したのが真実ではないかと感じる。

 

大谷選手の人間性が試される事態となっている。

すみやかに、彼は以下のように発言したり声明を出したりしてはいかがか(私の憶測が前提になっているが)。

「大変お世話になっている水原氏から賭博の借金について相談され、浅はかにも借金の肩代わりに応じてしまった。賭博や借金の肩代わりの違法性にまで考えが及ばなかったことを深く反省している。犯した罪については罰を受けねばならないと思う。」

 

これまでの大谷選手の野球一途な態度や謙虚さが無とならないよう、今回の事件について正直に事実を述べて対応することが肝要ではないか。

上記のようなコメントをすれば、かえって株が上がるかも。

罰を受けるとしても、大リーグからの追放はあるまい。

 

日米の野球用語

大リーグの大谷さんの話題がかまびすしい。

世間では,無理矢理に話題にされることを大谷ハラスメントというらしい。

ピッチャーとバッターの両方とも超一流という二刀流はもちろんだが、ドジャース球団に高額の契約金で移籍し、嫁さんももらったとなると話題にせざるを得ない。

 

テレビでも大リーグで出場する大谷選手を追いかけている。

衛星中継などで現地の実況放送を耳にすることもあるが、理解できる英語は野球用語くらい。

しかし、アメリカで使う野球用語は日本と共通なものの方が少ない。

 

日本で使う野球用語は、多くが和製英語だ。

和製の野球用語がどうやって使われ始めたのか知らないが、もっともらしい英語表現ではある。

 

例えば、ピッチャーの投げた球がバッターに当たることを死球というが、これを和製英語でデッドボールという。

硬いボールが猛スピードで身体にぶつかるのだから、当たり所が悪ければ死んでしまうかもしれないという意味では死球やデッドボールという和製英語はなるほどと思う。

しかし、野球の発祥地でもあるアメリカの野球用語では「hit by a pitch」という。

「投げて当たること」というあっさりしたもの。

 

バッターが三振しても空振りしたボールをキャッチャーが取り損なうと,バッターは一塁へ走って出塁を試みることができる。

これを日本ではバッターの振り逃げという。

食い逃げに似た語感があり,何か悪いことをするようでおかしいが,振り逃げについての和製英語はない。

あえていえばスイングアンドダッシュというところか。

アメリカでの野球用語は「dropped third strike」とか「uncaught third strike」という。

これについても「三つ目のストライクのボールを取り落とす」という事実関係を述べただけのあっさりしたもの。

 

死球振り逃げなどを例にあげてみたが,一般的に日本の野球用語はアメリカの野球用語と比べて情緒的な語句が多いように思われる。

 

 

 

 

 

3月はソワソワする月

3月もなかば。

日差しも少しづつ強くなり春めいてきた。

陽気に誘われてか、外出する人が増えているように感じる。

 

多くの学校や会社は3月末で環境をリセットする。

この時期は学校で卒業式をすませた子どもや、春休みの大学生とおぼしき人たちが平日の昼間からうろうろしている。

進学や就職の準備をしているのかも知れない。

大人たちも3月は職場が年度末ということで仕事に区切りをつけなければならない人が多かろう。

移動の時期でもあり、引っ越さないといけない人は転居先を決めたり荷物を運んだりして大変だ。

 

子どもも大人も何となく街を行きかう人たちが落ち着かなくてソワソワしているようにみえる。

 

そうこうしているうちに、桜が咲き始める。

「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」

桜をめずる人たちも開花期間の短さに、いつ散ってしまうかと気持ちがソワソワし始める。

 

ソワソワすると書いたが、気持ちや態度が落ち着かない様子を示すことば。

しかし、その語源は古語からという人もいるが、よくわからないようだ。

いわゆるオノマトペの類なのだろうが、それが擬態語(気持ちがワクワク、肌がスベスベなど)なのか、擬音語(犬がワンワン、雨がザーザーなど)なのかわからない。

 

となれば、想像するしかないが、擬音語かも知れない。

私たちは落ち着きがないとき、自然と体が動いてしまう。

そのときの衣擦れの音をソワソワと擬音化した言葉というのはどうだろう。

 

いずれにしても、3月はソワソワする月。

受験の公平性

国公立の大学入試の真っただ中。

と言いたいところだが、昔と違って今は一般入試(2月の前期入試と3月の後期入試)の前に募集人数の半分くらいは既に学校推薦や面接試験で合格が決まっているそうだから、入試方法も変わってきた。

 

いろいろな入試方法で合格者を決めることは大学側がいろいろな観点から優れた学生をとりたいからで、推薦だろうと一般入試だろうと受験の公平性に問題はない。

しかし、同一の入試についてみると、受験生たちはみんなが公平に取り扱われなければならない。

入試について一番大切な点でもある。

受験会場になる教室では場所によって寒かったり直射日光が当たったりするようなことはないか、受験生への試験官の指示内容が教室ごとに違はないかなど気を遣う。

 

ところが、先日、受験生が公平に扱われているのか疑問に感じる出来事があった。

それは高校入試の手続きで生じたミス。

高校入試までは受験生の願書を中学校がまとめて高校側に提出することが多い。

その願書の提出が中学校の教職員の勘違いで、締め切り時間より2時間遅れてしまい受け付けてもらえなかったという。

 

厳正に行われないといけない入試だから高校側は願書の提出期限を厳守したのかも知れないが、どうにかならなかったものか。

2時間遅れの願書の提出を受け付けたところで、受験の公平性が損なわれただろうか。

入試業務を混乱させるわけでもあるまい。

しかも、教職員が願書の提出期限の日時を間違えたのに。

受験生にはまったく非がない。

 

願書の受け付けを拒否されたので、受験生たちは希望する高校へ進学する機会を失ってしまった。

受験生にとっては最悪の不利益を被ってしまった。

入試の試験官が間違えて解答時間を少しでも短くしてしまったら、再試験を用意して受験生に不利がないようにしたりするではないか。

 

ミスを犯した中学校の校長が願書を出す高校に受け付けてくれるよう懇願したらしいが無理だった。

高校側は,締め切り後の願書の受け付けが前例になるのを恐れたか。

・・・・・。

前例とならないようにして,それぞれの状況に応じて判断すべきではないか。

石頭ぞろいの硬直した社会にならないためにも。