シニアがブログでモノローグ

このままでは年を取って死ぬだけ。ブログでもやってみよう。

学生時代を振り返ると、あれはアクティブラーニング

コロナ禍で、既に多くの大学が遠隔授業していると聞く。

大学での勉強の仕方も様変わりした。

約50年前に私が大学に入学したころを、ふと思い出す。

 

今日のような学生による授業評価はなく、教授陣は学生におもねることなく教えていた。

ある授業は、先生が講義用に作った文章をゆっくりと読み上げるだけだった。

学生はそれを必死になってノートに書き留めるだけで授業は終わった。

講義用の文章をコピーでもして学生に配布すればそれで済むような話であるが、学生の方から不満はあまり出なかった。

 

そんな中、学部の1年生のときに出会ったある授業は勉強の仕方というものについて私に示唆を与えるものだった。

専門科目であったが、購入した教科書について講義することもなく、いきなり英語論文を読まされた。

 専門誌に掲載された英語論文のコピーをあらかじめ渡されて、その論文の解説がなされるという授業だ。

 

英語論文は専門用語(テクニカルターム)が多いので訳しづらい。

予備知識がないので、ちんぷんかんぷんであった。

そんな授業は受けなければいいじゃないかと思うかしれないが、困ったことに必修科目であった。

先生の話が難しすぎるので、復習するために教壇の前にマイクを立てて録音する学生もいた。

 

当然、合否判定のテストも難しかった。

私たちのクラスでは、授業を受けた最初の年に9割の者が不合格だった。

追試がないので、次年度に再挑戦することとなる。

必修科目の単位が取得できないと卒業できないので、2年目からは必死に勉強する学生が増えてくる。

 

教科書に基づいた授業はしないのかという学生からの質問もあったが、先生の回答は「教科書は日本語で書かれているし、自分で勉強できるでしょ。」というものだった。

考えてみるに、この授業方法も勉強の仕方の一つだと思うようになった。

一般的な勉強方法としては、まず教科書を読んだりして概要を知り、その後に詳細なことがらに踏み込むことが多いのではなかろうか。

 

大学で経験した授業はその逆をいくものだった。

いきなり専門分野の詳細なことがらに触れられるのであるが、そのことを本当に理解しようとすれば勉強して基本的な用語の意味など、予備知識を得なければならない。

自然に自分で教科書や他の参考書も読むようになった。

 

案外、これが近ごろ文部科学省が唱えている「アクティブラーニング」につながる先駆的な経験ではなかったか。

いわゆる教科書的な話を聞かされているだけでは、「主体的で深い学び」ができない。