シニアがブログでモノローグ

このままでは年を取って死ぬだけ。ブログでもやってみよう。

今日は父の祥月命日(父と会話した記憶)

1971年の今日(6月28日)、私の父は亡くなった。

若い人にはなじみのないことばかも知れないが、故人の死んだ月日と同じ月日を祥月(しょうつき)命日という。

故人となって51年、今となっては法事もない。

 

私は父が50歳のときに兄弟姉妹で6番目の末子として生まれた。

太平洋戦争時の連合艦隊司令長官で有名な山本五十六(いそろく)は、父親が56歳のときに生まれたことに因んでつけられた名前らしいから、上には上がいる。

 

父は私が大学一年生のときに亡くなった。

その前日の早朝、「家に戻って来ないか。」と姉から大学の寮に電話がかかってきた。

寮で寝ていた先輩が起きてくれて、バイクの後ろに私を乗せ駅まで送ってくれた。

 

家に帰り病院へ行くと、既に父の意識はなかった。

医者から意識が回復することはないだろうと居合わせた家族に告げられた。

その日の未明に脳出血を起こして倒れていたのだ。

 

翌日の早朝、父の呼吸の間隔が長くなり最期のときを迎えた。

そのとき、母がはっきりとした口調で「父さん、長い間ありがとうございました。」と礼を言った。

父には聞こえたのかどうかわからないが、目から一筋の涙がこぼれた。

悲しみながらもちゃんと感謝の言葉を述べた母が偉いと思ったことを覚えている。

 

私の父は元来、口数が少なかった。

若いときに草野球をやっていたようだが、一緒にテレビでプロ野球中継を見ていても、じっと見ていた。

そんなわけで、親子の会話の内容については記憶に乏しい。

 

数少ない記憶ではあるが、私がまだ幼い頃、可愛がってくれた父と一緒に寝ていたときに会話した記憶がある。

戦後日本の高度経済成長が始まる頃,まだ日本人の多くが豊かさを夢見ていたころだ。

わが家は貧しいのか,そうでないのか聞いてみたことがある。

幼い子どもに急に尋ねられたからか,父は返事に困ったようだった。

少し間があったように思うが,苦笑しながら,貧しさを知らないと立派な人間になれないと答えてくれた。

 

小学生になる前に当時でも上等な牛革のランドセルを買ってくれたが,毎晩,枕元に置いて寝るよう父に言われた。

私に学業に励んでほしいと願ったのかも知れない。

以来60数年,果たして私は立派な人間に少しはなれたであろうか。

今は亡き父に会って聞いてみたい。