シニアがブログでモノローグ

このままでは年を取って死ぬだけ。ブログでもやってみよう。

遊書の作品

以前のブログで遊書の教室に通い始めたことを記したが(2026年5月9日付け「遊書?」参照)、先日、生徒たちの作品の展示会があった。

まだ教室は続いているが、受講してみての感想を記すとともに、恥ずかしながら私の「遊書」作品をこのブログに貼付する。

 

毎週開講されるというので当初は先生の意気込みを感じていたが、内容的にはやや空回りの感がぬぐえない。

一回90分の教室だが、その半分は先生がこれまでしてきた仕事を紹介する長~いお話。

繰り返し聞かされるお話もある。

お話を傾聴すると、売り上げ促進のためのコンサルタント的な立場からPOP広告を主に手掛けてきたようだ。

特にキャッチコピーについて、毛筆を使った手書きの文字が評価を受けてきたらしい。

その従来の書道にこだわらない自由な筆遣いを先生は遊書と結びつけている。

 

遊書はアート感覚で自由に文字を書けばいいようだが、遊書らしくするために先生は私たち生徒に左手で筆を握って書けという。

左手の運動で右脳を働かせると感性も活性化させるようなことをおっしゃるが、怪しい。

普段使わない左手で文字を書くと、味わいのある文字が書けるという程度のことか。

 

今回の作品展示会では、好きな漢字を一つ取り上げて作品にしなさいということだったので、下にあるような自分の作品を二つ作ってみた。

漢字に加えて簡単なイラストを入れている。

 

ここで生きる

 

歯ブラシと絵の具で描く

 

本当にスポーツ選手の活躍は被災地の方々に勇気を与えているのか

またスポーツ選手から常套句を聞いたので記しておきたい。

先日の大地震が発生した地域から全国大会に出場する高校生のコメントがそう。

被災した地元の方々に対して「勇気と感動を与えられるプレーがしたい」と意気込む。

 

・・・・・。

本当に被災地の人たちは地元のスポーツ選手が活躍するのを見て、勇気と感動が得られるのだろうか。

自分が被災者になったと仮定してみると、そうはならないような気がする。

被災からなんとか立ち直ろうとしている勇気とスポーツに垣間見る勇気とは比べ物にならないのではないか。

感動なら地元の選手が出場しているときだけでなく、他のスポーツ観戦でも感じることはできる。

 

見ている人々に勇気や感動や希望を与えたいというスポーツ選手の常套句は少し思い上がりがあるように聞こえてしまう。(気づかないで言ってしまう人もいそうだが)

競争して勝ち上がってきたという自信や選ばれし者という感覚がそう言わせてしまうのか。

一方、スポーツ選手の中にはこれらの言葉を使わずに「喜んでもらえたらうれしい」などと言う人もいる。

こういうところにそれぞれの選手の個性が現れる。

 

そうは言うものの、私のように冷ややかな反応を示すものだけでなく、純粋に地元選手の活躍に勇気や感動や希望を見出す方々もいると思う。

スポーツの効用といえる。

 

 

メディアはおとなしい

リタイアしてからはテレビや新聞を見る機会も多くなり、ときどきは世の中の出来事にも関心が向く。

テレビや新聞はメディアの代表格。

近頃はインターネットメディアという言葉も聞く。

スマホで二次情報を寄せ集めた様々なニュースが閲覧できるが、その情報の信頼性については気になるところ。

コマーシャルでしかない記事や情報操作しているような記事が散見される。

(本ブログ2020年11月22日付け「ファクトチェック」参照)

 

メディアは様々な情報を私たちに提供してくれる。

特に権力ある者たちの情報を得ることによって彼らを監視し、真相や正義という観点から追及したり提言したりすることがメディアの大きな役割。

メディアからの情報に基づいて私たちは意見を交わし合い、やがて世論が形成される。

 

ふと、近頃のメディアについて思う。

私たちに知らせるべき出来事が的確にテレビニュースや新聞記事となって伝えられているのだろうか。

現場で取材した情報が報道される前に、上層部が権力ある者たちに忖度してもみ消されたりすることはないのか。

逆に、忖度した報道に変容しているようなことはないか。

ありそうな気がする。

 

メディアはただ情報を提供するだけにとどまってほしくない。

最近のテレビや新聞はオールドメディアと揶揄されて、少し元気がないようにみえる。

インターネットメディアの勢いに押されているが、信頼性はテレビや新聞の方が高いのだから頑張ってほしい。

 

ジャーナリズムを構成するテレビ・ラジオ局や新聞社や雑誌社の皆さん!

権力ある者たちに対してもっと恐れずに物申して、本当のジャーナリストになってください。

 

 

フォスター作詞作曲「主人は冷たい土の中に」

明治の初期に始まった音楽教育では、学校の音楽教科書に外国の歌曲が多く紹介されている。

歌詞を日本語にしているので翻訳唱歌と呼ばれ、その後に日本人が独自に作った文部省唱歌とは区別される。

翻訳唱歌では外国語の歌詞を意訳したり、一部を日本風の語句に置き換えたり、メロディーだけ残してまったく別の歌詞をつけたりして唱歌にしたものがある。

 

例えば、以前このブログにも記したアイルランド民謡が原曲の「庭の千草」では、原曲の歌詞にあるバラが古くから日本人に親しみのある白菊に置き換えられている。(本ブログ2025年11月25日付け「The Last Rose of Summer(「庭の千草」の原曲)和訳」参照)

モーツァルト作曲の「春への憧れ」は曲名が翻訳唱歌では「五月の歌」に変わり、春をひたすら待ち望むという原曲の味わいある部分の歌詞が削られている。(本ブログ2026年5月20日付け「五月の歌というよりも待ち遠しい春の方がふさわしい」参照)

 

今通っているボイストレーニングの教室では唱歌をよく歌う。

翻訳唱歌で日本語の歌詞が原曲の歌詞とかけ離れている場合、感情移入しながら歌うことは難しい。

メロディーはもともと作られたときの歌詞の内容と密接な関係にあるはずだから、なるべく原曲の歌詞は忠実に翻訳されている方がいいと思うのだが。

 

フォスター作詞作曲の「主人は冷たい土の中に」という翻訳唱歌があるが、ご存知だろうか。

おそらく子どもの頃、小学校か中学校の音楽の授業で「春風」という曲名で歌った人が多いのでは。

一番目の歌詞だけ示してみると、以下のよう。

 

吹けそよそよ吹け 春風よ
吹け春風吹け 柳の糸に
吹けそよそよ吹け 春風よ
吹け春風吹け 我らの凧に
吹けよ吹け 春風よ
やよ春風吹け そよそよ吹けよ

 

歌詞だけでは思い出しにくいかもしれないが、私も歌った記憶がある。

明治時代に加藤義清という歌人が作詞しているが、フォスターの原曲の歌詞の内容とはまったく無関係。

 

原曲は、アメリカの奴隷制度がまだ残っていた頃、農園で働く黒人たちが優しかった主人の死を嘆き悲しんでいる歌。

曲名はMassa's in De Cold Ground

歌詞は以下の通り。

Round de meadows am a ringing
De darkey's mournful song
While de mocking bird am singing
Happy as de day am long
Where de ivy am a creeping
O'er de grassy mound
Dare old massa am sleeping
Sleeping in de cold, cold graound
(chorus)
Down in de cornfield
Hear dat mournful sound
All de darkeys am a weeping
Massa's in de cold, cold gound


When de autumn leaves were falling
When de days were cold
Twas hard to hear old massa calling
Cayse he was so weak and old
Now do orange tree am blooming
On de sandy shore
Now de summer days am comming
Massa nebber calls no more
(chorus)

 

Massa made de darkeys love him
Cayse he was so kind
Now, dey sadly weep above him
Mournin cayse he leave dem behind
I can not work before tomorrow
Cayse de teardrop flow
I try to drive away my sorrow
Pickin' on de old banjo
(chorus)

 

黒人英語の混じった歌詞なので、全体を標準英語に変換すると以下の通り。

曲名Master is in The Cold Ground

 

Around the meadows there is ringing
The darkies' mournful song,
While the mockingbird is singing,
Happy as the day is long.
Where the ivy is creeping
Over the grassy mound,
There old master is sleeping,
Sleeping in the cold, cold ground.
(Chorus)

Down in the cornfield,
Hear that mournful sound.

Master is in the cold, cold ground.


When the autumn leaves were falling,
When the days were cold,
It was hard to hear old master calling,
Because he was so weak and old.
Now the orange trees are blooming
On the sandy shore;
Now the summer days are coming,
Master never calls anymore.
(Chorus)


Master made the darkies love him,
Because he was so kind.
Now they sadly weep above him,
Mourning because he left them behind.
I cannot work before tomorrow,
Because the teardrops flow.
I try to drive away my sorrow
By picking on the old banjo.
(Chorus)

 

上記の歌詞を以下のように訳してみた。

 

草原いっぱいに流れる黒人たちの悲しみの歌声
おかまいなしにマネシツグミ(鳥)は幸せそうに一日中さえずる

草で覆われた盛り土の上にツタが這う

そこには老いた主人が眠る
冷たい土の中に
(コーラス)
トウモロコシ畑から聞こえてくる悲しみの歌声
黒人たちはみんな泣いている
主人は冷たい土の中に


秋が来て落ち葉が舞い寒くなるころ
年老いた主人の呼ぶ声が聞きづらくなる
体がとても衰弱した上に年も取ったから
オレンジの木々が砂浜で花を咲かせる今
夏の日がやってきた今
主人はもう誰にも呼びかけることはない
(コーラス)


主人は黒人たちから愛された
とても優しかったから
今は彼の墓前で黒人たちが悲しそうに涙を流し
先立たれたことを嘆いている
私は涙があふれて明日が来るというのに働けそうにない
使い古しのバンジョーをつま弾きながら悲しみを癒そう
(コーラス)

 

このままの歌詞では歌えないが、内容をまとめて歌いやすくした武井君子の歌詞(1971年発表)がよく知られている。

 

近頃の政治家たちと彼らを国会に送り込んだ私たち

この国の政治について、私には何かしら憂鬱な日々が続いている。

ガラスの天井を破った女性党首の登場までは差し障りなかったのだが。

女性党首は首相に指名され、その人気の勢いを借りて国政選挙を断行した。

その結果は御承知の通り。

衆議院は、大勝した与党が多数決に持ち込めば何でもできる状態。

 

その女性党首の政治信条にまで思いを巡らせることなく、その政党の立候補者たちに多くの国民が投票したのでは。

女性党首の政治信条をいろいろ把握しているわけではないが、国旗損壊罪の制定を悲願とするような考え方の持ち主。

(本ブログ2026年4月6日付「偶像崇拝や踏み絵を連想する国旗損壊罪」参照)

首相は就任早々にも、台湾への中国の侵攻は日本にとって有事と放言。

いつも笑顔だが、衣の袖から鎧がちらちらと見える。

 

皇室典範の改正も然り。

国会会期中に実現できるよう、審議で最優先すべきものとした。

各種世論調査での女性・女系天皇を期待する多くの声にはまったく耳を貸さず、男系男子に固執する姿勢には危惧を感じる。

国会で与党が大多数の議席を占めている今のうちに、自分たちのやりたいことはやってしまえという問答無用のやり方。

 

野党も昔とは大違い。

与党と似たような保守的な思考をする政党の多いこと。

中には政権にすり寄る政党もあるのだから、情けない。

先の国政選挙の前まで最大野党であった政党も、他の政党と野合してずっこけるし。

(本ブログ2026年2月9日付「少し期待した中道新党・・・ダメじゃん」参照)

野党!

しっかり!

 

与党の国会議員を選挙で送り込んだのは私たちなのだから、彼らに投票した国民も私にとっては嘆かわしい。

 

小柄な日本人に島嶼(とうしょ)化の影響はあるか

前回のサッカーのブログで記した小柄な日本人。

欧米人と比較したときだけではない。

最近は街に出てすれ違う中国人や韓国人とおぼしきインバウンドと比較してもそう感じる。(実際にいくつかの身長測定資料をみても、日本人成年男子の平均身長は中国人や韓国人より低い)

どうして日本人は小柄なのか。

 

生物の進化の仕方を説明する、島嶼(とうしょ)化という用語がある。

島嶼の島は比較的大きな島,嶼は小さな島や岩礁。

両方を合わせて、大小の島々という意味。

島嶼化というのは,大陸から切り離されて閉ざされている島々では動物の大きさが大陸の近縁種とは異なる大きさに進化する現象。

大きな動物は島の限られた食糧で生存するためにエネルギー消費が少なくて済むよう体が小さくなり、小さな動物は島に天敵がいなくなると素早く動き回る必要がないので体が大きくなるらしい。

 

例えば、インドネシアのフローレス島に数万年前まで暮らしていたホモ属で身長が1m程度のフローレス人は、隔離された島に住んで体が小さくなったという。

同じくインドネシアの島々に住んでいる爬虫類で体長が2,3mのコモドオオトカゲは、もともと小さなトカゲが島嶼化で大きくなったという。

 

一万年以上前に間氷期を迎えて海面が上昇し,歩いては大陸と行き来ができなくなった日本列島。

当然,そこに住む日本人の体格にも島嶼化という淘汰圧が働いたのではないかと考える人がいる。

またその一方で,大陸と隔離されたとはいうものの日本列島を島嶼と呼ぶには広すぎるのではないかと考える人もいる。

体格にはそれぞれの地域の食文化で培われた栄養の取り方も影響する。

小柄な日本人に島嶼化の影響があるのかどうかは判然としない。

 

体格には気候も影響する。

いわゆるベルグマンの法則があって、寒冷地に住む人類集団は体が大きい傾向にある。

(本ブログ2020年10月21日付「寒さへの適応戦略」を参照)

日本人のルーツとなる縄文人の多くはもともと温暖な気候の南方からやって来た人類集団。

同じアジア人であっても寒冷なユーラシア大陸由来の中国人や韓国人より日本人が小柄なことに影響していないか。

 

 

サッカーワールドカップを見て思う日本人選手

サッカーワールドカップも決勝トーナメントに進出する国が決まり、佳境を迎えようとしている。

日本も進出できるようになったが、最初の相手がサッカー王国ブラジルだから負けてもおかしくはない。

思いっきりやれるのではないか。

 

予選のリーグ戦で日本はオランダやスウェーデンと対戦したが、日本人選手の体格は小さ目。

昔より大型化したのかも知れないが、ヨーロッパの彼らはそれを上回る。

体と体がぶつかり合うコンタクトスポーツでは、大型の選手の方が有利。

つぶしに来た大柄なオランダ人選手の犠牲になったのは小柄な久保。

スウェーデンはロングパスでボールを高く上げ、空中戦で彼らの身長の高さを生かそうとしてきた。

 

北欧の人たちは身長が特に高い。

オランダ人男性の平均身長が最も高く180cmを超える。

日本人男性より約10cm高い。

 

身長だけではない。

筋肉量も欧米人はアジア人より多い。

医療機器での測定結果を利用して、世界各国の両腕と両脚の筋肉量が比較されている。

その数値(骨格筋指数)を見ると、日本人の筋肉量は最も少ない。

そのせいかどうかわからないが、相手陣地でペナルティエリア外から打つ日本人選手のミドルシュートに強烈さが欠けていないか(打たないことの方が多いが)。

 

・・・・・。

ここでフィジカルの不利を嘆いていてもしょうがない。

よくいわれているように、日本代表の強みは組織として展開する力。

巧みに集団として協力しあいながら守り、攻めるということか。

サッカー戦術のことはわからないが、イレブンが連携してパスを重ね、相手の空いたスペースから攻め込むような戦い方が得意と聞く。

 

間もなく行われる対ブラジル戦は、集団の日本と個人技のブラジルの戦いか。

ブラジルの強さにあこがれるのは止めよう。

あこがれると超えられない(どこかで聞いた言葉)。