シニアがブログでモノローグ

このままでは年を取って死ぬだけ。ブログでもやってみよう。

少子社会

前回のブログで可愛い保育園児たちについて記したが、そんな子どもたちの数も減ってきている。

昨年一年間(2021年)の出生者数は約84万人。

この数だけを見てもピンとこないかも知れないが、私が生まれた1952年の出生数は約200万人だった。

子どもの減りようがわかるだろう。

 

一人の女性が一生の間に産む子の数を合計特殊出生率ということは以前に書いたブログ(2021年2月15日付「男女平等」)の通り。

合計特殊出生率が2人に到底達しそうもない状況が長年続いている。

私たちが子どもの頃、兄弟が3,4人はいるのが普通だったが、今となっては多い方だ。

 

子どもが少なくなった原因としては、女性の社会進出による晩婚化、子の面倒をみる者がいない核家族、結婚に対する価値観の変化など幾つか考えられる。

 

例えば晩婚化の実態(人口動態統計)についてみると、平均初婚年齢が戦後間もない1950年に夫25.9歳、妻23.0歳であったものが最近の2020年には夫31.0歳、妻29.4歳になっている。

20歳代からと30歳代からとでは育てる子の数も違ってこよう。

私は30歳くらいまでには結婚しようと漠然と思っていて結婚したが、今の若者たちに比べれば早い方だ。

 

とにもかくにも、将来を担う子どもの数は確実に減ってきている。

そんな中で保育園児たちのお散歩などを目撃すると、癒される。

 

 

保育園児たちのお散歩

5月の薫風に誘われて外出する。

保育園児らのお散歩らしき行列をみかける。

 

歩いている子らはお互いに手をつないでゆっくりと歩き,ついていけそうにない小さい子らは大きな乳母車に乗せられている。

眠っている子もいる。

全員が運動会でみるような色付きの帽子をかぶせられ,あたりを見回しながら,ときどき付き添いの保育士らに声を掛けられながら,のんびりと進む。

 

何とも微笑ましい光景だ。

これから先,いろいろな知恵がついていかない方がいいのに。

いずれはこの子たちも根回ししたり,空気を読んだりしていくのだろう。

5月5日の子どもの日もとっくに過ぎたが,子どもたちがみんな健やかに育ってほしいと思う。

 

昔,今の天皇が皇太子だった頃,記者会見で娘の愛子様の養育方針を聞かれた。

皇太子妃であった雅子様は静養し,愛子様はまだ幼かった頃だ。

ご存知の方もいようが,そのときの皇太子はドロシー・ロー・ノルトというアメリカの家庭教育学者の詩(子ども)を引用した。

この詩に感銘を受け,詩に書かれているようなことが自然に学べるようにしたいと述べている。

 

私も自分の子どもを育てたが,この詩を読むと反省すべきところがある。

備忘録としてその詩を以下に記しておこう。

 

子ども(川上邦夫訳)

 

批判ばかりされた子どもは、非難することをおぼえる

殴られて大きくなった子どもは、力にたよることをおぼえる

笑いものにされた子どもは、ものを言わずにいることをおぼえる

皮肉にさらされた子どもは、鈍い良心のもちぬしとなる

しかし、激励をうけた子どもは、自信をおぼえる

寛容にであった子どもは、忍耐をおぼえる

賞賛をうけた子どもは、評価することをおぼえる

フェアプレーを経験した子どもは、公正をおぼえる

友情を知る子どもは、親切をおぼえる

安心を経験した子どもは、信頼をおぼえる

可愛がられ抱きしめられた子どもは、世界中の愛情を感じとることをおぼえる

 

 

今年のゴールデンウィークも終わろうとしている(憲法記念日に少しだけ想う)

ボーっとして生活していたら,いつの間にかゴールデンウィークも終わろうとしている。

勉学に励んだり働いている現役世代の者たちにとっては貴重な連休だろうが,リタイアしている私にとっては何ということもない連休。

一年中がゴールデンウイークといってもよい。

 

昭和の日(4月29日)から始まって,憲法記念日(5月3日),みどりの日(4日),子どもの日(5日)と祝日が続く。

これに週末の土日の休みが加わると,その日が何の日だかわからなくなる。

 

ゴールデンウイークの祝日の中でも、意識しておくべきものは憲法記念日ではないか。

憲法は国のおおもとになる決まりごと。

他の法律や命令で変えることはできない。

憲法記念日はそんな大事な日本国憲法が1947年に施行された日を記念し、国が成長していくことを願う日だ。

 

日本が敗戦して連合国から指導されてできた憲法とはいえ、国民主権基本的人権の尊重、平和主義という三大原則は誇るべきものだろう。

そのような日本国憲法ではあるが、改正すべきではないかという意見が昔からある。

改憲派自衛隊や緊急事態への対応を憲法の中に文言として盛り込みたいようだ。

 

最近、憲法記念日がくることもあって某新聞は憲法改正世論調査をした。

それによると、「憲法を変える必要がある」が56%、「憲法を変える必要がない」が37%で改憲必要派が大きく増えていた。

 

そういうものかと思う一方で、世論調査に回答した方々がどれくらい憲法改正についての知識を持ち合わせていたのかということが気になった。

世論調査での質問の仕方を見ると、「いまの憲法を変える必要があると思いますか。変える必要はないと思いますか。」と聞いているだけだ。

 

こういう質問にどれくらいの意味があるだろうか。

憲法の全体を理解した上で、憲法のどの部分が問題で、そこをどういうように改正したいのか、どういう文言を付け加えたいのかがわかってなければ正確に回答できないのではないか。

 

最近のロシアによるウクライナ侵攻からくる国防意識のような漠然とした空気感に日本国憲法が影響されないようにしたい。

 

 

 

そっちこそどうなんだ主義

Whataboutismということばがあるらしい。

これはどうなんだ(What about ー?)と聞くことから来ている。

きちんとした和訳はないようだが、「そっちこそどうなんだ主義」とか呼ばれている。

議論するときの論法として利用されている。

 

例えば、Aさんが「Bさんが〇〇したことは良くない」と批判したとき、BさんがAさんに対して「Aさんも〇〇したことがあるではないか」と言い返して批判をチャラにしようとする論法だ。

よくある論法なのでネットで調べてみたら、Whataboutismということばに出会った。

 

何で話題にしたかというと、最近のロシアのウクライナに対する非人道的な行為に対して、ロシアが「そっちこそどうなんだ」という論法を使用しているからだ。

 

例えば、アメリカの大統領がロシアの大統領を戦争犯罪人呼ばわりするのに対して、ロシア側は「アメリカだって過去にアフガニスタンイラクで民間人も犠牲にした空爆をするなど非人道的な行為に及んでいるではないか」と反論する。

もっといえば、アメリカの大統領に非人道的な行為を批判する資格があるのかということだろう。

 

もともと「そっちこそどうなんだ」という論法は議論しようとする出来事とは別なことであり、取り上げるべきものではない。

議論をそらそうとするものだ。

 

この論法は日常生活でもあるように思う。

妻からこの論法で仕掛けられたら、冷静に諭してやろう。

 

 

 

 

 

戦時国際法はどうなっているのか

前回のブログにも記したが,ロシアのウクライナ侵攻が止まない。

一方的に新しい国を作ろうとしたり,政権を変えようとしたりしているようだ。

そうなれば,これはもう侵略戦争と言わざるを得ない。

 

侵略戦争国際法で禁じられている。

国際法といっても具体的な法律があるわけではなく,国内法と対比してつけられた分類上の名前だ。

国同士が守るべき条約や国際的な慣習が国際法と呼ばれている。

戦争にかかわる国際法戦時国際法と呼ばれている。

 

第一次大戦後にパリで締結された「戦争放棄に関する条約」が有名だが,おかまいなしに第二次大戦があったりして・・・・・どうしようもない。

 

現在,戦争を違法としてわずかながらも効力を発揮しているのが前回のブログでも触れた国連憲章2条4項だ。

国連憲章は基本的な原則を述べたきまりごとだが、条約のようなもの。

一方的に他国の領土や政治体制に対して武力で脅したり武力を行使したり(侵略戦争)してはいけないと記されている。

 

ただし,侵略戦争かどうかは国連の常任理事会で決めるので,一つの常任理事国でも反対すれば(拒否権を行使すれば)侵略戦争とは認められない。

常任理事国には侵略戦争を仕掛けそうな国が多い。

自衛権による武力行使などは認められているから,適当な理由を付けて拒否権を行使すれば戦争できることになる。

 

人間には恐ろしい側面がある。

平和な世の中では人ひとり殺しても大騒ぎなのに,戦争になると平気で多くの人が殺し合う。

 

そんな戦争にもいろいろなルールがある(そもそも戦争することを前提としているのはおかしいのだが)。

「開戦に関する条約」というルールでは,開戦に先立ち相手国に宣戦布告をすることや相手国への最終的な要求である最後通牒をすることになっている(拒否されれば宣戦布告)。

挨拶してから戦争を始めようというのだから馬鹿げている。

 

戦時国際法には国際人道法というカテゴリーに入れられる幾つかの条約もある。

これは民間人や傷病者を保護したり生物化学兵器を使わないなど人道的に戦争しなさいというルールだ。

人道とは人としてなすべき道徳のようなもの。

人道に配慮するなら,最初から戦争などしてはいけない!

 

ウクライナの人々が早く平和を取り戻せますように。

 

 

暴力と武力

先月末にロサンゼルスでアカデミー賞の授賞式が催された。

そのときの出来事として,俳優ウィル・スミスが司会者の頬を平手打ちする事件があった。

ウィル・スミスの妻を揶揄した司会者のトークに腹を立てたらしい。

ほんの小さな暴力事件だが大きな話題となり,ウィル・スミスはアカデミー会員を辞退するはめとなる。

 

他方,近ごろ毎日報道されているのがロシアのウクライナ侵攻だ。

ロシアが一方的に武力を使ってウクライナに攻撃を仕掛けた。

武力行使は暴力の最たるものだろう。

 

どんな理由があろうと暴力や武力行使は許されない。

ところが,困ったことに個人的な暴力は取り締まりやすいが,国家から国家への武力行使(戦争)は取り締まりにくいようだ。

20世紀の初めのころまで戦争は国家の権利として認められていたというからびっくりする。

戦争禁止は当たり前と思うのだが。

戦争については国際社会が結構ゆるい意識を持っていたように感じる。

 

二度の世界大戦を終えて,国際連合の憲章(基本的な考え方)の中に以下のような原則が記された。(2条4項)

「すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇または武力の行使を、いかなる国の領土保全または政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない。」

 

誰が和訳したのか知らないが,わかりにくい文章だ。

国連憲章の原文を見ると以下のようになっている。

All Members shall refrain in their international relations from the threat or use of force against the territorial integrity or political independence of any state, or in any other manner inconsistent with the Purposes of the United Nations.

「すべての加盟国は、国際関係において、領土保全または国家の政治的独立に対する脅迫または武力の行使、あるいは国連の目的と矛盾するその他の方法を控えるものとします。」(グーグル翻訳)

 

この国連憲章は条約に近い重みがあり,戦争を違法とする国際法の拠り所となっているようだが,何となく心もとない。

しかも,国際法に従わなかったとしても強制的に取り締まる手段を持ち合わせていない。

 

春は別れのシーズン

春は入学シーズン。

半世紀前の話だが、私は田舎の高校から都会にある大学に入学した。

大学の入学式にあわせて、父と一緒に汽車に乗って都会に足を踏み入れた。

父は末っ子の私への最後のお勤めと思ったのか、自らの意思で入学式についてきてくれた。

 

入学式も無事終わり、父は帰りの汽車に乗るために一人バスで駅へ向かった。

大学で別れた後に気づいたが、私は父に何の挨拶もしていなかった。

わざわざ入学式に来てくれたのでお礼ぐらいは言おうと思い直し、私も父の後を追ってバスで駅へ向かうことにした。

 

ところが、不案内なために私が乗ったのは遠回りして駅に行くバスだった。

間に合うだろうかとバスの中でやきもきしながら駅に着いた。

急いでホームに駆け上がると、幸いにも出発直前で座席に座って新聞を広げている父を見つけることができた。

窓ガラス越しに目と目が合って、私が少し手をあげたくらいだったのではないか。

窓を開けてお礼が言えたのかまでは覚えていない。

ともあれ、どうにか父が帰るのを見送ることができた。

 

ささやかな出来事ではあったが、遠く離れた大学への入学などは私たちが親から離れていく一つのきっかけになる。

 

その約3か月後、父は急逝した。