春から一年間の予定で「キーボードでピアノレッスン」というタイトルの教室に通っている。
場所は老人福祉センターなるところ。
「老人」という言葉やその語感が気になるが,サービスしてくれるわけだから,まあ,目をつぶっておこう。
(本ブログ2020年5月6日付の「老人福祉センター(老人?もっとほかに言い方はないのか)」を参照あれ。)
教室にキーボードは準備されていないので,自宅からキーボードを背負って自転車に乗り教室に通う(といっても,月に一回しかないが)。
キーボードやピアノは弾いたことがないので,鍵盤の押さえ方から習う。
中学校までしか音楽教育は受けていないが,楽譜を見ると「ああそうだったなあ」と思い出される音符や記号が並ぶ。
最初は右手だけの練習から始まる。
五線譜に並ぶ音符の音階を確認しながら鍵盤を押さえる。
もつれそうになりながらも五本の指を動かすので,大脳皮質の運動野を大いに覚醒しているだろう。
運動野で広い面積を占めているのが手を操る命令を出している細胞だ。
しばらくして,右手に左手が加わった。
・・・・・。
両手を使って目にも止まらない速さで弾いているピアニストたちの偉大さに気づく。
左手が心地よい和音を奏でてくれる。
といいたいところだが、ときどき鍵盤を押し間違えてしまう。
と、そのときにいつも感じることがある。
和音になっていないことが素人の私にもすぐにわかるのだ。
和音が誰にでも心地よく感じられるのはなぜか?
不協和音を変に感じるのはなぜか?
和音そのものの特徴は、合わさる音それぞれの周波数の比が簡単な整数比に近いものになるらしいが、なぜそれを私たちは心地よく感じるのか。
生理学的な説明はできていないようだ、
私たちのこの感覚は後天的に獲得したものではないように思う。
かといって、生得的な場合の生理学的なメカニズムも解明できていないようだ。