シニアがブログでモノローグ

このままでは年を取って死ぬだけ。ブログでもやってみよう。

デス エジュケーション

前回のブログで自殺について記したが,自殺の予防教育を含めて以前から「死の教育」の必要性が指摘されている。

 

社会的背景として,自殺,高齢社会における終末医療との係わり,核家族化による家族内での死別経験の減少,安楽死脳死の問題について考える必要性などがあげられる。

米国などでは早くからDeath Educationにかかわる内容が教科書に盛り込まれているが,残念ながら日本の小,中,高校の学習指導要領にはこれに関連する記述をみない。

 

死の教育ということばには暗いイメージがあるかもしれないが,見方を変えれば生命を尊重して充実した人生が送られるようにする教育である。

また,生命の尊重は多くの犠牲者を出す戦争を回避しようとする平和教育にもつながる。

 

私たちは人生の中で様々な出会いと同時に別れを経験する。

肉親との死別,ペットの死,転校・卒業・転勤による友人や生活環境との別れ,自分の幼児性との別れなどである。

特に,身の回りにいた人の死に対しては衝撃を受け,悲嘆(ひどく悲しんで、それを口に出していう)を乗り切れなかったときには心身の健康を損なう危険性がある。

 

愛する人などの突然の死に対して,私たちは悲嘆する。

悲嘆したときに起きることがある反応の経過について書物で調べてみると,まず,精神的な打撃と現実感覚がなくなるような麻痺が生じる。

死という事実を否定したり,恐怖を感じたりする。

不当な苦しみを負わされたという怒りの感情や,やり場のない感情を周囲の人にぶつけたりする。

一方では,悔やんで自分を責めるような罪の意識を持ったり,故人がまだ生きているかのような空想や幻想を抱いたりする。

そして,孤独感,抑うつ,精神的混乱の状態に陥ったり,物事に対して無関心になったりする。

しかし,時間がかかるかもしれないが,やがては死を受容し,あるいはあきらめて現実に勇気を持って直面しようとする。

ユーモアや笑いを取り戻すことが悲嘆を克服しようとしている証になる。

悲嘆から立ちなおり再び希望を持つようになって,私たちはより成熟した人間になることができるとも考えられる。

見方を変えれば,別れの体験は精神的な成長を促す機会になる。

 

子どもの場合は死に対して死とは何か,どうして死ぬのか,死んだあとどうなるのかという根本的な戸惑いがある。

(3~5歳:死を不可逆的とは考えられない,5~9歳:生き返らないと認識するが自分の死は考えない,10歳~:死の絶対性・普遍性を認識する)

 

悲嘆している子どもに対しては,そのことから話をそらさないで本人の思いや悩みを自由に話させ,感情を十分に発散できる機会を作ってあげるべきである。

悲嘆を受動的に耐え忍ぶのではなく,悲嘆に対しては能動的に立ち向かわなければならない。

 

死の教育により,悲嘆への対処,死の不可避性,医学的意味,加齢,心理,自殺,慣習,尊厳死,戦争など死をめぐる諸問題について正しく理解して適切な考え方や行動がとれるようにすることが望ましい。

これらに答えるべき死の教育への取り組みは少ない。

 

私たちは誕生した瞬間から死に向かって歩み始めるが,死がいつ訪れてもあわてないよう死への心の準備をしておく必要がある。

死の教育は死による過度な悲嘆を防止する予防教育にもなれば,死に対する心の準備教育にもなる。