シニアがブログでモノローグ

このままでは年を取って死ぬだけ。ブログでもやってみよう。

いつの間にか師走

ブログを書いて頭を鍛えなきゃと思いながら時間がたってしまった。

前回のブログを書いたころは寒さをあまり感じなかったが,12月になるとさすがに暖房せずにはいられない。

3か月くらい前は家の中でほぼ裸に近い状態だったのに。

いつの間にか寒くなった。

 

北海道に比べれば南国の冬の寒さなんか大したことはないと思うかもしれないが,家の中は必ずしもそうはなっていない。

そのことを図で示そう。

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上図は冬の平均外気温と平均室温(居間,浴室,脱衣場所,トイレ,廊下,寝室の平均値)との関係を地域別にみたものだ。

外気温,室温ともに一週間の平均値を示している。

冬の外気温を横軸にとっているが,静岡や鹿児島の10℃前後から札幌の-3℃程度まで幅がみられる。

 

図中に直線を引っ張っている部分をみると,外気温が低い地域ほど室温も低くなっていることがおわかりいただけるだろう。

しかし,札幌は外気温が最低なのに対して室温は最高となり,他の地域とは異質な室内温熱環境を形成していることがわかる。

北海道の家の中は暖かいのだ。

 

札幌では冬季に外気温が零下となるので,暖房設備をはじめとする寒冷地仕様の住環境が広く普及し,屋内全体が温暖な状況にある。

そうじゃないと暮らしていけないだろう。

 

冬に家の中にいて寒い思いをするのは,むしろ南国に住んでいる人たちだ。

家のつくりも夏向きだし。

今となっては,夏が待ち遠しい。

 

 

勤労感謝の日はどんな日?

もうすぐ勤労感謝の日

今年最後の祝日。

といってもリタイアした私にとってはカレンダーで見過ごしてしまうような、何だかよくわからない祝日だ。

国民の祝日に関する法律祝日法)によれば、「勤労をたっとび、生産を祝い、国民がたがいに感謝しあう」日らしい。

勤労とは熱心に仕事や勉強をすること。

 

勤労感謝の日となる前までは宮中行事として新嘗祭(にいなめさい)という祭事が行われていた。

天皇がその年に獲れた穀物を神々に供えて収穫に感謝する日であった。

しかし、戦後になって祝日を見直すときに神道の行事であったことに難色がしめされた。

議論の末に勤労に感謝する日にしようということになったらしい。

 

祝日法での趣旨にしたがうと,熱心に仕事や勉強をして有形無形のものを産みだすことを尊いものとし、そうする人たちに感謝する日のようだ。

簡単に言うと勤労感謝の日は世の中のために一生懸命に頑張っている人たちに感謝する日と言えるだろう。

 

ちなみに、勤労は日本国民の三大義務のうちの一つだ(ご存知のように、ほかの二つは教育を受けさせる義務、納税の義務)。

「すべての国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。」と日本国憲法の第27条にしめされている。

勤労感謝の日は、国民が義務としている勤労をお互いに感謝し合う日でもある。

 

 

 

文化の日に少しだけ想う

今日は文化の日

国民の祝日に関する法律では「自由と平和を愛し、文化をすすめる」ことを記念する日と説明している。

文化をすすめるという説明は何となくわかるが、何で自由と平和を愛しという前置きがあるのか?

 

もともと文化の日の11月3日は戦後の1946年に日本国憲法が公布された日だ。

憲法記念日にしたかったらしい。

しかし、明治天皇の誕生日を祝っていた日でもあったので日本を占領していたアメリカ側から横やりが入り、日本国憲法が重んじている「自由と平和を愛し」、文化をすすめることを記念する「文化の日」に落ち着いたという。

 

日本国憲法には三大原則があることをご存じだろう。

国民主権基本的人権の尊重、平和主義だ。

基本的人権としての自由と平和に基づいた文化を再認識して祝おうというのが文化の日だと解釈したい。

 

ところで、文化とは何だろう。

手元の電子辞書を引いてみる。

要約すると、いろいろな社会で作り出され人々に受け継がれてきた行動様式や生活様式と書いてある。

人間の精神活動で生み出された思想・宗教・科学・芸術などの成果とも書いてある。

 

後者の方が具体的にイメージしやすい。

付け焼刃かも知れないが、文化とやらを享受しよう。

 

 

 

 

 

 

 

秋の大運動会と徒競走

ここ数日で、ようやく秋らしい気候になった。

昭和の中ごろに子ども時代を過ごした身としては、秋の運動会は記憶に残るものの一つだ。

早生ミカンの香りをかぐと、秋の運動会を思い出す。

 

近ごろは春に運動会をやる学校の方が少し多いそうだが、秋の運動会も残っているようだ。

私が小さいころも春に運動会らしきものをやらされたが、それは規模の小さなもので、秋は大運動会と言っていた。

 

運動会のメインイベントには騎馬戦や綱引きをあげるかも知れないが、個人種目の徒競走が気になるメインイベントだったという人も多いだろう。

徒競走が嫌いな人も得意な人も一緒になって走らされ、家族や親しい人の声援を受けながら駆け抜ける。

運動会に徒競走はつきものだが、参加するかどうかを選択できれば、走るのが苦手な人も助かるのに。

 

私たちは走るのに慣れているように見えるが、ヒトになってすぐに走れたわけではない。

二足性の歩行では、足による支持面積が狭い。

走ったりすると頭も揺れるので、視線の乱れを補正したり身体のバランスをとったりする平衡感覚が必要になる。

この平衡感覚のために重要な役割を果たしているのが三半規管だ。

走る動作は三半規管からの信号が統合されて可能になる。

猿人であるアウストラロピテクスの三半規管の形状は現生人類とは異なり、走るのは苦手であったと推測されている。


ただし、アウストラロピテクスの足には類人猿とは異なるかかとの骨(踵骨しょうこつ)が備わり、そこへふくらはぎにある下腿三頭筋の末端(筋尾)から連なるアキレス腱がついた。

アキレス腱は踵骨を介してさらに足底部を足底腱膜となって足指につながる。

足底部は足底弓と呼ばれるアーチ構造をしているが、足底腱膜により維持されている。

アーチ構造はスプリングの役目をし、着地するときの衝撃を吸収するとともに二足歩行の機械的効率を高めるものとなった。


現生人類はうまく走れるようになったのでアフリカのサバンナでは草食動物を長時間にわたって追跡した。

獲物が疲れ切ってしまったところを仕留めるような狩猟をしたようだ。

 

一方、ネアンデルタール長距離走が得意ではなかったという説がある。

足関節の位置が現生人類よりも前寄りにあるので着地してつま先で体重を支えたときにアキレス腱が蓄える張力エネルギーが少なく、次に蹴り出して前進するためのエネルギーを得にくい。

そのため、ネアンデルタールは森林地帯で隠れて待ち伏せして獲物を捕まえた。

しかし、地球が寒冷化したときに狩猟の場であった森林地帯を失い、ネアンデルタールは絶滅したという。

 

私は現生人類の一員だが、シニアとなった今はうまく走れない。

 

 

皇室の懐事情

真子内親王の結婚相手に対して世間の風当たりはきびしい。

結婚相手とその母親のこれまでの数々の振る舞いからして、皇室利用が懸念されているからだ。

懸念の最たるものは、皇室に投入されている税金が結婚相手の母子に利用されないかということだろう。

ということで、皇室に使われている税金について見てみた。

 

皇室経済法という法律では、皇室費として「内廷費」「皇族費」「宮廷費」の三種類がある。

内廷費は、天皇家天皇・皇后の家族と上皇上皇后)の私的な費用だ。

近年は毎年3億2400万円が支出されている。

内廷費は支出されると宮内庁経理する公金ではなくなる(自由に使える)。

どのように天皇家で分配されているかは発表されていない。

使い道について以前に明らかにされた資料では、私的なものとして人件費(33%)、衣類など身の回りのもの(18%)、食費(13%)、交際費・災害見舞金(10%)、旅行・研究費(7%)、神事(7%)、医療その他(12%)となっている。

 

皇族費は、天皇家以外の各宮家に支出される私的な費用だ。

皇族としての品位保持に充てるものとなっている。

皇族一人ひとりの立場に従って年額が決められ、令和3年度の皇族費は総額2億6,932万円となっている。

ちなみに、成人してからの真子内親王には毎年915万円支出されている。

父親の秋篠宮皇嗣(皇太子相当)ということで毎年9150万円、母親の紀子妃は毎年1525万円だ。

皇族がその身分を離れるときは一時金が支出されるようになっているが、真子内親王は辞退される模様。

皇族費も、支出されると内廷費と同様に宮内庁経理する公金ではなくなる(自由に使える)。

 

宮廷費は、宮内庁のホームページによると儀式、国賓・公賓等の接遇、行幸啓、外国ご訪問など皇室の公的活動に必要な経費、皇室用財産の管理に必要な経費、皇居の施設の整備に必要な経費などで令和3年度は118億2816万円となっている。

宮廷費宮内庁経理する公金として扱われる。

 

上記の皇室費とは別に宮内庁費がある。

宮内庁の運営のために必要な人件費・事務費などが主なもので,令和3年度は125億8949万円となっている。

 

以上、皇室の経費を概観すると内廷費皇族費は自由に使えて透明性に欠けるようだ。

つまり,私たちの税金がどのように使われているかはわからない。

ここら辺のお金の使い道がある程度わかれば、今回の真子内親王の結婚話にかかわるタックスペイヤーとしての国民の不安も少しは和らぐのではないか。

 

 

健康寿命

今朝は家の外がのんびりしていた。

考えてみたら,今日は敬老の日で世間はお休みだった。

リタイアしてからの生活では休日の有難味がうすれ,カレンダーでときどきやってくる休日を意識しにくい。

 

敬老の日といっても,敬われるのはまだ早い。

昨年の敬老の日についてのブログにも書いたが(2020年9月24日付),自分が敬われる対象と感じるのは後期高齢者といわれる75歳以上になった頃からではないか。

実際に歳を重ねていくときの私の実感だ。

 

後期高齢者の頃になると平均的な健康寿命は過ぎている。

5年ほど前になるが,日本人の2016年の健康寿命は男性72.1歳、女性74.8歳と計算されている。

 

一般的に健康寿命とは「日常生活に制限のない期間の平均」をいう。

日本では国民生活基礎調査というもので調べている。

「日常生活に制限のない期間」とは具体的にいうと,日常生活動作(起床,衣類着脱,食事,入浴など),外出(時間や作業量などが制限される),仕事・家事・学業(時間や作業量などが制限される),運動(スポーツを含む)などに影響が出ていない健康な期間ということだ。

 

健康寿命は「自分で健康であると自覚している期間の平均」でもある。

こっちの方が理解しやすいだろう。

健康状態を聞かれたときに,5つの選択肢(1よい 2まあよい 3ふつう 4あまりよくない 5よくない)のうちの1~3と回答する状態が続いた期間ということだ。

健康寿命は主観的であいまいだが,健康とはもともとそういうものだろう。

 

平均的な健康寿命の尽きている後期高齢者になって人様にお世話になり始めた頃に,敬老の日は敬われたいという気持ちが頭をもたげるかも。

 

幸か不幸か,健康寿命が尽きても命が尽きる平均寿命まではまだ間がある。

健康寿命が尽きたら迷惑をかけずに早く死にたいと思う人もいるだろうが,人間修業ができていない私はその境地にまでは至っていない。

 

最近の平均寿命は男が82歳,女が88歳くらいだ。

まだまだ死ねない。

 

 

パラリンピック

東京オリンピックに次いでパラリンピックが行われていたが,それも先日終わってしまった。

パラリンピックでは,障害のある人たちが選手となって熱戦を繰り広げた。

卓球では、エジプトのハマドトウ選手が足の指でボールをつまんで投げ上げ、口にくわえたラケットでボールを打っていた。

ラリーもできる。

興味本位で見てはいけないが、その技術に見とれてしまった。

ここまでなるには相当の努力が必要だったろう。

努力が苦手な私は頭が下がってしまう。

 

民族差,男女差,年齢差などがあって私たちの存在は多様だ。

さらには,身体や心に障害を持つ人がいたりして多様性に満ちている私たちが共生する社会を実現するために、オリンピックと並行してパラリンピックが開催されている。

共生するとは文字通り、一緒になって生きて行くということだろう。

 

パラリンピックでは,障害のある人たちがそうでない人たちに支えられながら競技している。

このような共生は,一方のみが利益を受ける「片利共生」(生物学用語)のように感じるかもしれないが,断じてそうではない。

利益とは無関係に共生しなければならない。

 

共生するとは、様々な人たちがお互いを尊重して分け隔てなく暮らしていくことだ。

私たちみんなにこういうことができたら,もう少しましな世の中になりそうなのだが。