シニアがブログでモノローグ

このままでは年を取って死ぬだけ。ブログでもやってみよう。

再びアベノマスク

一昨年の春,国からアベノマスクが日本中の各所帯に2枚づつ配布された。

当時の安倍首相の肝いりの政策だったので世間からアベノマスクの名がつけられたが,小さかったり不良品があったりして不評だった。

 

ところが,配布されずに残ったマスクが約8000万枚あるとのこと。

在庫管理するだけで年間に数億円を要するというから,もったいない話だ。

そうした無駄遣いが近ごろ明らかになったので,厚生労働省は在庫のマスクを希望者へ無償配布することにした。

 

昨年の12月から今年の1月にかけてマスクの希望者を募ったところ,在庫数を大幅に上回る約2億8000万枚もの応募があったという。

これを聞いた安倍元首相はアベノマスクが必要とされていたと思わせるようなコメントをしている。

 

しかし,約2億8000万枚のマスクの希望があったという発表からアベノマスクの人気のほどを推測していいだろうか。

送料無料で無償配布してくれるようなマスクを希望する人が多いのは当然ではないか。

よく「タダほど怖いものはない」というが、もともと私たちの税金でまかなったマスク。

全然怖くない。

 

しかも、マスクを申し込んだ方はご存知のように、希望する枚数は100枚単位で申し込むようになっている。

中には家族の分も含めて1000枚以上申し込んだ人もいるだろう。

いわゆるアベノマスクという布製のマスクと、ポリエステル製の立体マスクと2種類が申し込める。

申し込んだ人は2種類のマスクを少なくとも100枚づつは申し込んでいるのではないか。

 

個人だけでなく団体も大量にマスクを申し込める。

推計では合わせて約37万件の申し込みがあったという。

マスクの枚数では2億8000万枚の希望があったが、申し込まれた件数は決して多くない。

 

マスコミは政府がいうままにマスクの枚数だけに注目しないで、募集方法などもあわせて報道しないと誤解する。

 

 

 

 

 

 

コロナ禍はいつまで続く

新年も明けて,はや1か月が過ぎた。

思えば一昨年のはじめから新型コロナ感染症は世界各地へと広がり,丸2年たとうとしている。

近ごろは新型コロナウイルスの変異株であるオミクロン株とやらによる感染症が世界中に広がっている。

 

現在,日本でもオミクロン株による感染症が第6波となる感染者数の増加をもたらしている。

毎日の感染者数の多さはこれまでで最高だ。

感染力の強さがオミクロン株の特徴で,病原性の強さはそうまでないというが。

 

ウイルスは生物の細胞に入り込んで細胞の持つ機能を利用して増殖する。

ウイルスが変異して病原性が強くなった場合は,入り込んだ生物を死なせてしまうのでウイルスは生き残れなくなる。

そうならないように,変異したウイルスの中でも病原性が弱く感染力の強いウイルスが生き残りやすいらしい。

 

オミクロン株がこの理屈にあてはまりそうだが,詳しいところはまだわからない。

しかし,感染力が強いのは明らかだ。

日本での感染者数の増加が頭打ちになるのはまだ先のことだろう。

コロナ禍はいつまで続くのか。

 

政府は緊急事態宣言を発出したいところだろうが,経済がまわらなくなることを恐れている。

宣言しても,すべての人を対象にする必要はない。

エッセンシャルワーカーをはじめ,じっとしていては社会や生活が立ち行かなくなる方々には活動を続けてもらえばいい。

 

それ以外の方々が,やはり感染症対策の原点に戻って不要不急な外出を避け「ステイホーム」するのが一番の対策ではなかろうか。

私にもあてはまるが,リタイアして不要不急な生活をしている人は多いから,そんな人たちはなるべく「ステイホーム」しよう。

年齢が高くて重症化リスクも高いのだから。

 

 

平熱、低体温、高体温

前回のブログで「平常の体温(平熱)が維持できなくなって低体温や高体温が続いたときに様々な障害が生じ、健康ではなくなる。」と記した。

平熱とはどれくらいの体温だろう?

低体温や高体温とはどれくらいの体温だろう?

 

以下の話をする前に、注目する体温がどの部分の温度かを考えておかないといけない。

体温はからだの部位によって違う。

日常生活の中で体温といえば、日本人の場合は脇の下で測った体温(腋窩温えきかおん)をイメージする人が多いだろう。

ということで、このブログ記事で体温といえば腋窩温のことだ。

 

平熱については、36.5℃前後だと思うかもしれないが、同一個人内での変動や個人間の差も見られる。

同一個人内では、体温が明け方に低く夕方に高くなる。

女性の場合は性周期の影響もある。

個人間の差では、体温が若年者で高かったり、筋肉量の多い人が高かったりする。

 

したがって、平熱といってもその体温がどれくらいかは決めにくい。

平均的な話をすると、平熱は36℃台の後半だとする調査結果がある。

これに一日の変動を加味すると、平熱は36℃台から37℃台の前半くらいまで人それぞれで幅がある。

自分の平熱を知っておくとよい。

ちなみに私の平熱はおよそ36.5℃だ。

 

それでは、低体温とはどれくらいの体温だろう?

前回のブログ記事でも触れたが、35℃未満としている研究者が多い。

 

一方、高体温とはどれくらいの体温だろう?

これも決まっているわけではないが、感染症予防法に基づいて義務化されている感染症患者の届け出をするときの基準が参考にされている。

 

その基準には、「発熱とは体温が37.5℃以上を呈した状態をいい、高熱とは体温が38.0℃以上を呈した状態をいう。」と記されている。

これにしたがって、高体温は38℃以上としているものが見受けられる。

妥当なところではなかろうか。

 

水銀体温計の目盛りは37.0℃が赤線になっていて、それを超えれば体温が高いと騒ぎ出す私のようなものもいるのだが。

 

ホメオスタシス

前回のブログ記事で、生理学的にみると健康は生体の諸機能がある範囲で変化しながらも平衡状態になって安定している状態(ホメオスタシス)だと記した。

このことを説明するために、体温がよく取り上げられる。

 

私たちの体温は腋(わき)の下で測ると36.5℃前後になるように熱産生と熱放散が自動的にコントロールされる。

その結果、体温は多少の高低を繰り返しながらホメオスタシスを維持している。

平常の体温(平熱)が維持できなくなって低体温や高体温が続いたときに様々な障害が生じ、健康ではなくなる。

 

高体温による障害は,まとめて熱中症という。

障害は熱痙攣,熱疲憊,熱射病(日射病)に分類される。

 

筋の不随意収縮が起きるのが熱痙攣だ。

循環障害が起きて血圧低下,めまい,脱力感や頭痛により虚脱状態となり,意識を失うこともあるのが熱疲憊。

熱射病の段階になると発汗の停止,高体温,中枢神経系の障害(全身痙攣,虚脱,昏睡)が起きる。

熱中症で最も危険な状態だ。

 

一方,低体温による障害には全身的なものとして低体温症 がある。

体温が35℃未満になるときを低体温という。

体温が低下するにつれて体内の化学反応速度は遅くなり,そのために産熱は減少するという悪循環におちいる。

特に高齢者は代謝による熱産生が少なく温度感覚も衰えるので低体温症になりやすい。

体温が低下し続けると機能障害を経て虚脱状態となり,危険な状態になる。 

 

ホメオスタシスは私たちが様々な環境で生存できるようにするからだの仕組み。

その仕組みが障害されても,からだには自律神経系や内分泌系の助けを借りて体制を立て直そうとする働きがある。

自然治癒力や適応能力ということばが当てはまりそうだ。

 

 

皆様のご健康とご多幸を心よりお祈りいたします

新年になって初のブログ記事だ。

一年前に比べると書くペースが落ちている。

文章を考えることは頭の体操になるだろうからと,時々,思い出したようにブログを書いている。

 

今年の年賀状もほぼ出そろった頃。

年賀状を出すのを止めてもいいが,止められないでいる。

形式的なことは嫌がるタイプだと自分では思っているのだが。

 

年賀状に形式的に書かれている文言でよく目にするのは以下の文だ。

「皆様のご健康とご多幸を心よりお祈りいたします。」

・・・・・。

健康とは何だ?幸せとは何だ?

 

健康という言葉は病気の反対語として理解されることが多いが,必ずしもそれだけの意味にとどまらない。

最もよく引用されてきた健康の定義は,国連の専門機関であるWHOが1946年に発表した憲章(基本的な方針や施策を定めたもの)に記されている一文だ。

 

そこには,健康というものが以下のように定義されている。

"Health is a state of complete physical, mental and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity." 

健康とはいろんな意味で良好な状態だと幅広くとらえている。

極めて曖昧な定義でもある。

具体的に健康について語る場合は個人の医学的検査値,集団の死亡率,平均寿命などの健康指標が用いられる。

 
日本国憲法では第25条に,健康が個人の生存権や国の社会的使命として守られるべきものである旨が記されている。

健康は大変重要なものだと誰しも思うが,つまるところ,漠然としている。


生理学的にみると,健康とは生体の諸機能がうまく働いている状態のことであるといえる。

米国の生理学者キャノンCannonは生体の諸機能がある範囲で変化しながらも平衡状態になって安定していることを観察し,そのような恒常性をホメオスタシスhomeostasisと名づけている。

健康とはホメオスタシスが保たれている状態ということができる。

これが破綻しはじめるときに疾病が生じると考えられ,その究極は死だ。

 

「皆様のご健康とご多幸を心よりお祈りいたします。」

もう一方のご多幸とは何だ?

・・・・・。

しあわせは いつも じぶんの こころが きめる(相田みつを

冬至が過ぎたのに日の出が早くならない

私たち現代人の資質の多くは何百万年もの原始の時代に培われてきたもの。

原始的な暮らし方をすれば,それが現代社会にけがされていない本当に人間らしい生き方になるのではないか。

まずは日の出とともに活動を開始し,日の入りとともに活動を終えてみるのはどうだろうと,ふと思う。

 

ということで,日の出ととともに活動を開始しようと試みて気づいたことを一つ。

今日は12月29日。

冬至(今年は12月22日)も過ぎたのに日の出が早まっていない。

まだ,日の出の時刻が遅くなり続けているではないか。

・・・・・。

恥ずかしながら,この年になって知ったことを簡単に以下に記す。

 

冬至は一年で昼間の時間が最も短い日であることはその通りだ。

このような昼間の時間の変化は、地球が太陽の周りをまわる公転面に対して地球が自転する軸が傾いているので生じることは学校で習った。

 

しかし,冬至の日に日の出が最も遅く日の入りが最も早くなるわけではないようなのだ。

日の出が最も遅くなるのは冬至より後の1月上旬、日の入りが最も早くなるのは冬至の前の12月上旬という。

 

なぜこういうことが起きるかというと、地球の自転する軸が傾いていることと地球の公転が楕円軌道のために地球と太陽との位置関係に多少のブレが生じて、日の出と日の入りの時刻に影響するようだ。

天球図など見てもピンとこないのだが。

いずれにしても、冬至に日の出が一番遅くなるわけではない。

 

私の住んでいる地方では、今、日の出とともに活動し始めようと思えば午前7時過ぎに起きればいい。

しかし、午後5時過ぎの日の入りとともに活動を止めて寝に入るにはちょっと早過ぎる。

暗くなっても、もう少し電気をつけて起きていることにする。

・・・・・。

原始的な暮らしは難しい。

 

 

私の書く字は「とめ」や「はね」がない「はらい」文字

そろそろ年賀状を出す準備をしないといけない。

挨拶をメールで済ませるなど、昔に比べれば年賀状を出す人は少なくなっただろう。

年賀状を出すのを止めてもいいのだが、抜け出せないでいる。

 

女房は年賀状が好きなようだ。

毎年、この時期になると年賀状にパソコンのプリンターで印刷するときのデザインを考えるよう私に言ってくる。

 

パソコンのプリンターで年賀状にイラストや挨拶文を印刷しただけでは味気ないので、手書きで一文を添えているが、私の書く字はお世辞にも上手とはいえない。

私には姉や兄が合わせて5人いる。

みんな口にこそ出さないが、私の字が兄弟姉妹の中で一番下手だと思っているはずだ。

 

小さい頃は学校の書き方大会で丁寧にきれいな文字を書いていたように記憶しているが、いつの間にか草木がなびくような文字になってしまった。

私の書く字には「はね」や「とめ」がなくなっている。

学校で習ったはずなのに。

字の一画一画が「はらい」に近い。

 

しかしながら、ひそかに私は思っている。

丁寧できれいな文字を書いたとしても、所詮、活字にはかなわないだろう。

それよりも個性豊かな字を書いた方が人間味があって味深くはないか。

 

漢字には「とめ」や「はね」や「はらい」がなくても間違いではないことを世間の方々はご存じだろうか。

漢字テストで「とめ」や「はね」ができていないと間違い扱いされたり注意されたりするが、それはおかしい。

 

2016年に文化庁は「常用漢字表の字体・字形に関する指針(報告)」を発表している。

その中のQ&Aで,漢字の正誤をどう判断するか?という問いに対して以下のように答えている。(抜粋)

 

「文字の形に関しては,文字がその文字特有の字体を表しているかどうか,その文字に特有の骨組みが読み取れるかどうかを漢字の正誤の判断基準としています。つまり,別の文字と見分けられなかったり,紛れてしまったりすることがなく,その文字であると判断でき,その文字としての働きをするのであれば,誤りとはしない,という考え方です。ですから,漢字の細部のとめ,はね,はらいなどが,字体の違いに影響し,文字の判別に関わってこないのであれば,その有無によって正誤を分けることはしません。」

 

上記の通り堅苦しい文章だが,書かれた文字がその文字として読み取れれば誤りではないということだ。

私の書く「はらい」の集合体のような文字も判別できれば,それでいい。

迷惑をかけなければ,それでいい。

 

私の書く字がいとおしい。